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諸葛孔明





1、諸葛亮の生い立ち





古代中国、三国鼎立の時にあった一つ、
の丞相であり、天才軍師と称される


(丞相とは今でいう総理大臣にあたる。)


(あざな)を孔明(こうめい)という


【字....成人を迎えた男子に与えられる名前。


三国志演義』では字で記載されているのは、

劉備諸葛亮のみである。なのでここでは、孔明と呼ぶ。】



(おくりな)は忠武、武侯。
琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(きすい)県)の人。


前漢の政治家、司隷校尉(大臣を監視する役)である
諸葛豊の子孫にあたる。


早く父を失い、兄の諸葛瑾は呉に、
亮は荊州におもむいた。


襄陽(湖北省)の郊外の西、
隆中という地に住み、


隆中吟を歌い、
晴れた日には畑を耕し、  


雨の日には本を読み、
悠々自適に暮らしていた。






2、自称エリートだった孔明


学生時代、自らを
の大政治家である管仲、戦国時代、という国を支えた大将軍である楽毅に比べていた。



しかし、共に学ぶ周りの友たちは、戯言だと信じなかった。


しかし、徐庶という友人と水鏡先生(司馬徽)だけは孔明の才を見抜いていた。


臥竜丘に住まいがあったことから*
臥竜先生と評された。


*…伏した竜という意味。



優れた才を持ちながら、
まだ世には出ていない大人物という意味。





3、漢の末裔、劉備に仕える



荊州の刺史である劉表を頼って荊州にきていた劉備という人物


当時、廃れていた漢室の再興を目指すため、
賢人を求めていた。


その時、孔明の友人であった徐庶から
孔明を紹介され、


当時、劉備は左将軍という
身分の高い地位でありながら、




何の身分もない孔明に会うため、3度も臥竜丘に訪れ(これを三顧の礼という)



三顧の礼...最大の礼儀もって、接すること。

の時代に描かれた三顧の礼
【WIKIPEDIAより引用】


孔明はこの事に感激して、劉備天下三分の計を説き、仕えることとなる。


その親密な間柄を*君臣水魚の交わりと言われる。



当時、劉備が孔明を招き入れた際、
自らを魚、孔明を水に例えて、

まるで自分は水を得たような魚のように


生き生きとするようになった。




当時、天下の半分を得ていた
曹操が南下して荊州を攻めると、


東の地にある江東の
孫権のもとにおもむいて

劉備と同盟してこれにあたることを説き、
赤壁の戦いにて曹操軍89万人の戦略に対して、


呉軍5万、劉備1万で、勝利を収め、孔明はその勝利に功績を残した。



その後、天下の要である荊州
手中に収めた。



続いて天下三分を実行すべく
益州を手に入れることを劉備に勧め、


ついに益州の劉璋を攻めて
益州(=蜀)領有に成功したが、


その後、天下の要である荊州
(江東)に奪われてしまった。



劉備が蜀を建てると
孔明丞相に任ぜられ、人心の宥和内政の一新にあたった。


その後、夷陵の戦いで敗北した
劉備は死に臨んで後には


劉備の子どもである
劉禅の補佐をしている。


【劉備が臨終する際、


「もしも息子の劉禅が愚かな主君であれば、


そなたが帝位につき、
漢室を再興させてほしい。」と言い残した。


この台詞から劉備が
どれほど孔明を信頼していたかが分かる。】



4、北伐


北伐にて対峙する諸葛亮(孔明)司馬懿(仲達)


孔明は、が荊州を占領した以来、


国交の絶えていたとの同盟を復活させ、



また自ら軍を率いて南蛮(雲南)の平定にあたり、



後顧の憂をなくしたあと、
227年「出師の表」を劉禅に上ってから


先帝=劉備の意志を引き継ぎ、を滅ぼしたとの戦いに北上した。(これを北伐という。)


「臣亮言う。先帝業を創
いまだ半ばならざるにしたまえり」始まる。

(直訳すると、
先帝=劉備は漢の再興という大業を抱いてましたが、

志半ばでたおれてしまいました。、となる。)



この出師の表
政治を怠り、享楽にふける主劉禅

対する注意と孔明
の先帝との思い、

漢室の再興を願いに願った
熱い文章であり、

「読みて泣かざるものは忠臣にあらず」と
評される名文である。


第1次の北伐
街亭という蜀軍の


糧道(戦う際に食料を通す道)であった場所を守るために


自分の弟子であった馬謖起用したが自らの命に従わずに


敗北し、蜀軍は撤退を余儀なくされた。



責任として、軍法に従い、孔明
馬謖を涙を流し、処刑した。

これを泣いて馬謖を斬るという。

また、敗戦の責任として自らの地位を下げた。
丞相から左将軍に位を下げた。】



その後
第2次、3次、4次とにわたる北伐も成果を残せず、


234年、5次の北伐で五丈原にて
宿敵である司馬懿との対陣中に没した。


その後、孔明の死を知った司馬懿
撤退する蜀軍を攻撃するも、

孔明が死ぬ間際に作らせた
自らの木像を見せ、


司馬懿孔明が生きていると勘違いして
慌てて逃げ帰ったという。

これを死せる孔明、生きる仲達を走らすという。



その後、 
司馬懿が蜀軍の陣営を見たところ、

諸葛亮、天下の奇才なり』と洩らした
という。


また、では
諸葛亮の死を嘆き悲しみ、像が祀られたという。

墓は定軍山にあり、自らの要望で
質素なものとなっている。

成都(蜀の首都)に武侯祠堂がある。



[狩野直


『狩野直著『諸葛孔明』(1966・人物往来社)


 ▽宮川尚志著『諸葛孔明』(1978・桃源社) 


▽林田慎之助著『中国の英傑5 諸葛孔明』(1986・集英社)』




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