今回は江戸時代で行われたある有名な政策について触れたいと思います。
江戸時代とは徳川家康が江戸に幕府を開いた時代ですね。
この時代は質素・倹約精神がすごかったらしく、
体重が男性でも平均40〜50kgだったとか。話が逸れましたね。
そんな時代の中、
三代目の徳川家光が作ったある政策について触れていきます。

1,大名行列とは
簡単に言うと参勤交代によって大名(偉い人)が江戸と
その人が所有する国とを行ったり来たりするさいの行列。
ここで重要なのは、参勤交代というフレーズです。
①参勤交代のはじまり
江戸城に人質を提出したことに始まる。
徳川氏の覇権確立後、諸大名の証人提出が多くなり、
また江戸に大名屋敷を設けるものが多くなったが、
なお諸大名の自発的意志によるもので制度として実施されたわけではない。
1615年(元和1)制定の「武家諸法度」も、
参勤作法に関し、従者の員数を定めるにとどまった。
しかるに、3代将軍徳川家光は、
34年(寛永11)譜代大名の妻子を江戸に移し(つまり人質である)、
ついで翌35年には「武家諸法度」を改訂し、参勤交代を制度化した。
ここに参勤交代は諸大名の役儀・奉公として義務づけられ、毎年4月が交代期と定められた。
こうして、諸大名は在府・在国1年交代となり、
大名行列が一般化し、江戸時代の重要な行事の一つとなった。
[藤野 保]
②行列の規模と特権
100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、
10万石以下の大名は分に応ずるよう定められたが、実際にははるかに大規模であった。
幕府も寛永(かんえい)法度においてこの実状を認め、
従者の員数は分相応とし、極力少なくする方針をとったが、
諸大名は互いに競い合い、威勢を張り、見栄(みえ)を飾る傾向が強かった。
行列の順序は、大名によって異なるが、
髭奴(ひげやっこ)に次いで金紋先箱(きんもんさきばこ)、槍持(やりもち)、
徒歩(かち)などの先駆がこれに続き、大名の駕籠廻(かごまわ)りは馬廻、近習(きんじゅ)、
刀番、六尺などで固め、そのあとを草履取(ぞうりとり)、
傘持(かさもち)、茶坊主、茶弁当、牽馬(ひきうま)、騎士、
槍持、合羽(かっぱ)駕籠などの後従が続いた。
行列の通行には大きい特権が与えられ、行列の先払いが通行人に
土下座(どげざ)を命じ、河川の渡し場では一般の旅人を川留(かわどめ)にした。
供先を横切るなど無礼な行為があった場合は切捨御免(切る)の特権があった。
大名行列の道筋は幕府によって定められたが、
東海道を利用する大名がもっとも多く、全体の6割を占めた。
東国筋(すじ)の大名は主として陸路をとったが、
西国筋の大名のうち四国、九州の大名は、瀬戸内海を船で横断し、
大坂より陸路をとる大名が多かった。
大名行列が華美になると、遠国の大名ほど経済的負担が大きくなり、
大名財政の窮乏をきたす主因となった。
[藤野 保]

コメント
コメントを投稿