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1,メンデルとは
近代遺伝学の創始者。
7月20日モラビア地方の小村ハイツェンドルフの小さな果樹園をもつ貧しい農家に生まれる。
苦学しながらオルミュッツ(現、チェコのオロモウツ)の短期大学を卒業し、
ブリュン(現、チェコのブルノ)の聖トマス修道院に推薦された。
この地方の芸術、科学の中心だったこの修道院で、植物学や数学、
物理学への能力が開花し、近くの中学校の代用教員も務めるようになった。
聖職者より教師のほうが適しているとみられたメンデルは、
周囲の人々の勧めで正教員になるための検定試験を受けたが合格しなかった。
メンデルが修道院の庭の一隅を借りて、エンドウの遺伝研究を開始したのは、
検定試験に不合格になってからまもなくのことであった。
このエンドウの研究(1856~1862)は1865年に
「植物の雑種に関する実験」と題する論文にまとめられ、
ブリュンの自然研究会の席上で発表された。
翌1866年その会の紀要に印刷され、各地の大学、研究所に送られたが、
その重要性を認める者はなく、発表後35年を経た1900年にようやく、
オランダのド・フリース、ドイツのコレンス、オーストリアのチェルマクの3人が、
それぞれ独立にこの論文の重要性に気づき世に紹介した。
メンデルが発見した遺伝法則は、
のちに「分離の法則」「優劣の法則」「独立の法則」などにまとめられ、
その研究方法とともに、近代遺伝学の出発点となった。
メンデルの研究が長い間無視された理由には、
彼が大学で生物学を専攻した研究者ではなく、
一介の修道院僧にすぎなかったことへの偏見もあるが、
生物の遺伝形質を全体としてとらえず、
個々の単位形質の集まりとしてとらえたり、
実験結果の処理に数学的方法を導入するといった
斬新(ざんしん)な研究方法が理解されなかったことや、
当時の学界がC・ダーウィンの進化論の影響などで
遺伝より変異に関心を集めていたことなどがあげられる。
メンデルが教えを請うていた当時の植物学界のリーダーの一人、
ミュンヘン大学のネーゲリが、自分の変異研究の材料にしていた
ミヤマコウゾリナに実験対象を変えるよう
メンデルに指示したことにもそれが表れている。
メンデルは、交配実験のやりにくいミヤマコウゾリナの研究で目を悪くしたうえ、
1868年の選挙で聖トマス修道院の院長に選ばれ、雑用に追われる身となり、
遺伝研究を続けることができなくなった。
1874年オーストリア議会が修道院からも徴税する法律を制定、
彼はその反対闘争に立ち上がり、
死ぬまでの10年間はその撤回のための闘いに全精力を傾けた。
政府の懐柔策と闘ううちに、周囲からも裏切られ、孤立し、
しだいに人を信じない気むずかしい老人となり、
1884年1月6日この世を去った。
[真船和夫]
『フーゴー・イルチス著、長島礼訳『メンデル伝』(1960・東京創元社)』
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