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『落ち込み少女』第13章その1






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夏休みだ。

照り出された太陽、

絵の具の原色で表せそうな青空、風鈴の音、

人の声帯ではとうてい表現できないであろう蝉の鳴き声、

今はまごうことなき、夏休みだ。

だが、僕はあまりその事実と受け止められずにいた

別に学校に行っていたわけではない(二度だけ行ったが)。

僕は部活動や委員会などには所属していないし、

補修を受けるほど成績が悪いわけでもない。


答えはシンプルなものだ。


なぜなら僕は普段から休んでいるからだ。

日頃から休んでいる人間にとって、

休みというのは欲しいものではあるが、必要なものではないのだ

そんな僕が、いやそんな僕だからこそ、

一年に一度の夏休みを満喫出来るほど遊びに打ち込めるわけや

普段から休みなく働いているわけがないのだ。

実際、僕は西山の過去と平木との夏祭り、文田の絵以外は何も覚えていない。


生きていればどこかに所属しなければならないし、そこには縛られた時間がある。

しかしそれは二十四時間というわけではない。

どんな過酷な所でも義務から解放された時間があるはずだ。

それはいわば真っ白、いわゆる空白の時間となる。

ここで言い直したのはこのことを強調したいからではなく、

ただ単に僕の語彙力のなさが原因だと思う

話を戻すと、その時間というやつを外交的な奴は友人や恋人と遊び、

内向的な奴はゲームや読書といったものに当てるのだろう。

しかし、僕はどちら側にもつかない。

いや、つけないと言った方が正しいのかな。

僕にとってはみんなが楽しいことが楽しくない


小学生の時も中学生の時も夏休みは来たはずなんだ。

しかし、僕はこの夏休みをまだ知らない。

惰性な毎日が日々更新されていくことになぜだか違和感を覚えた。

なぜ夏休みについてここまで語る気になったのかというと、

今日が八月三十一日だからだ。



「祐、晩御飯よ〜」


母の声だ。

ベッドの上で横たわりながら天井を見ていると、

いつの間にか一日が終わりかけている。

散々考えてきたが、階段を下りると、晩御飯の内容の方が気になり始めた
まぁ、この答えはまた来年に預けるとしよう。


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