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正常化バイアス


1,正常化バイアスとは


 異常な事態に直面しても正常の範囲内であると判断し、平静を保とうとする人間の認知バイアス(偏見)のこと。

正常化の偏見、正常への偏向、日常性バイアスとも呼ばれている。

不安や恐怖などのストレスを軽減するため、日常生活の中で誰もが無意識のうちに行っているとされる。


人間には必要な心の働きだが、自然災害や事故などの非常時には「自分は大丈夫だろう」、

大したことにはならないはずだなどと思い込んで危険を過小評価することにつながり、

避難や初期対応が遅れる可能性が指摘されている。

2011年の東日本大震災でも同様のケースが起きた。


これは人間のポジティブ感情が悪い方向に働いていると私は考える

ポジティブは「肯定的」や「積極的」といったプラスの要素が強いが、現状の把握が甘くなる、

ひどくなると現実から目を背ける、自分の欠点を見ない、


自分の能力を過大評価しがちといった、マイナスの要素も含んでいる


また、日本人は外人に比べ危機管理能力が低いと言われているが、


これも正常化バイアスが悪い方向に作用したもの思われる。






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