電車の中では、ふつうであれば夫婦や親子など
親密な関係にある人間しか入ることを許されない密接距離や、
友人同士で用いられる個体距離のなかに
見知らぬ他人が入りこんでくるということから、別の規則が派生してくる。
見知らぬ他人が入りこんでくるということから、別の規則が派生してくる。
私たちはたまたま電車で隣り合って座った人と挨拶を交わたりしないし,
ふつうは話しかけることもない。
私たちはあたかも自分の密接距離や個体距離のなかに人がいることに
気がつかないかのように、それぞれ新聞や雑誌を読んだり、ヘッドホンをつけ
音楽を聴いたり、携帯電話をチェックしたり、ゲームをしたり,あるいは
目をつむって考えごとをしたりしている。
それはあたかも
物理的に失われた距離を心理的距離によって
埋め合わせているかのようである。
アメリカの社会学者E.ゴフマン(1922~82)は,
公共空間のなかで人びとが示す
このような態度を儀礼的無関心と呼んだ。
2、具体的に儀礼的無関心とは
どのような状態で行われるのか?
「そこで行なわれることは、相手をちらっと見ることは見るが、
その時の表情は相手の存在を認識したことを
表わす程度にとどめるのが普通である。
そして、次の瞬間すぐに視線をそらし、相手に対して特別の好奇心や
特別の意図がないことを示す。」
電車のなかで他の乗客にあからさまな好奇心を向けることが
不適切とされるのはそのためである。
たとえば,電車のなかで他の乗客をじろじろ眺めたり,
隣の人が読んでいる本をのぞきこんだりすることは不適切と感じられる。
隣の人が読んでいる本をのぞきこんだりすることは不適切と感じられる。
例外は子どもである。
子どもは他の乗客を指差して「あのおじさん変なマスクをしてる」
と言っても大目にみられるし,
逆に子どもに対してはじっと見つめることも,話しかけることも許される。
大人は,本を読んだり,音楽を聴いたり,目を閉じたりすることによって,
他の乗客に特別な関心を抱いていないことをお互いに示し合っている。
ゴフマンは続けて次のように書いている。
「儀礼的無関心を装うこととそのルールに違反することの一番わかりやすい例は,
相手が自分を見ていないのをよいことに相手を観察していると,
とつぜん相手の視線が自分に向けられ,自分が無礼にも相手を見ていたことが
わかってしまう時であろう。
その場合見ていた人は気まり悪がったり,恥じ入ったりして視線をそらすかあるいは
相手を見ていたには違いないが,それは礼儀上ゆるされる範囲内で
見ていたにすぎないといったふりを慎重につくろう」
私たちにも心当たりがあるだろう 。
(たとえば,地下鉄または夜の車内で窓に映っている様子を観察していて,
突然、窓のなかで他の乗客と目が合ってしまったときなど)。
突然、窓のなかで他の乗客と目が合ってしまったときなど)。
このように公共空間で見知らぬ他人にあからさまに関心を向けることは
不適切とされるが,
他方で、
他人に対してまったく無関心、であることもまた不適切とされる。
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