イデアとは素人がざっくり説明すると、
哲学者プラトンが考えだした概念で、
みんなが頭の中に想像するものは姿・形すべて同じだよ〜と言った。
例えば、三角形描くとき、人それぞれ違う形の三角形を描くが、
頭の中でイメージする三角形はみんな同じだよということである。
ここからは専門的に説明しよう。
1、イデアとは

プラトン哲学の用語。
「見ること」を意味する動詞イデーンIDEINの派生語で、
本来は「見られたもの」、形、姿、さらに物の形式や種類をも意味した。
プラトン哲学では、肉体の目によってではなく、魂の目によって見られる形を意味する。
日常の生の流れのなかで私たちの関わる個別の感覚的な事物や、われわれのなす個別の行為は、
それらをそのもの自体として切り離してみるとき、
いずれも、ある観点からみれば美しく、 正しいものであっても、
他の観点からみれば醜く、不正なものとして現れてもくるが、
イデアはいかなる観点からみてもたとえば「美のイデア」については
それはいつも美しく「正のイデア」についてはそれはいつも正しい。
個別の感覚事物、個別の行為のもつ多姿性
(それぞれが多様な、かつ、反対の述語を受け入れうること)に対して、
イデアのもつ単姿性、単一性がその特性である。
イデアとのかかわりによって 魂のうちにおける理性の「視」が成り立つと考えられる。
そこで、個別の事物が美しいものであり、
正しいものであるとすれば、それは、これらのものがそのもの自体として
美または正であることによってではなく、
それらが「美」または「正」のイデアを分有することによってであるとされた。(分有説)
また、絶えず流動変化していると見える世界は、
イデアにのっとり、イデアを範型として形成されるとも語られた。(これを範型説という。)
さらに、このようなイデアの知は魂の本然の生のうちに
すでに与えられているものであり、
それが日常の生のうちでは忘却されているが、
感覚される事物のうちにこれと似たものを見ることによって
想起されてくるのだともされた(想起説)。
こうして、イデアは、魂がその本然のあり方(=真)を回復しようとしておこす
愛知(=哲学)の運動の始まりと終わりにおいて限定して、
愛知の運動を成り立たせるものである。
「美のイデア」「正のイデア」はこういうイデアの典型である。
しかしプラトンの著作のなかには、
ほかに「等」「大」「小」というような形式的または数学的な事柄、
また「敬虔(けいけん)」「節制」というような
倫理的な事柄、さらに「寝台」というような人工物についても、
イデアが語られている。
そこで、「プラトンのイデアを何であると考えるか」は、学者の論争の的となっている。
イデアは多くの場合、「そのもの」ということばを付して、
たとえば、「美そのもの」「等そのもの」というように用いられる。
そこで、普遍的な名辞があるとき、
その名辞の意味する普遍者がイデアであると考えられることがある。
これは、プラトンの弟子アリストテレスが、
イデアの説を批判するときにとった解釈であるが、
その後も踏襲され、イデアは普遍概念の実体化であるとか、
概念実在論であるとか、という非難が浴びせられてきたのである。
しかし、イデア論の真義は、ソクラテスの愛知のうちに
その淵源(えんげん)をもつと考えられる。
ソクラテスにおいて人間的な知恵の唯一のあり方は、
人間にとっての最大事を問うことの内にあるが、
この問いは、この最大事がまだ知られていないと知る
根源的な問いかけであるが、この最大事へとかかわる
愛知の探求をその端初において限定するものが個々のイデアであり、
このかかわりの全体性を到達点として根拠づけるものが「善のイデア」である。
こうして、イデアとは、愛知の道行きにおいて、
問いを問わせている根源として示現してくるものであり、問うものの存在を含めて、
この世界いっさいの存在を問い返してくる根源そのものの示現の姿なのである。


[加藤信朗]
イデアとのかかわりによって 魂のうちにおける理性の「視」が成り立つと考えられる。
そこで、個別の事物が美しいものであり、
正しいものであるとすれば、それは、これらのものがそのもの自体として
美または正であることによってではなく、
それらが「美」または「正」のイデアを分有することによってであるとされた。(分有説)
また、絶えず流動変化していると見える世界は、
イデアにのっとり、イデアを範型として形成されるとも語られた。(これを範型説という。)
さらに、このようなイデアの知は魂の本然の生のうちに
すでに与えられているものであり、
それが日常の生のうちでは忘却されているが、
感覚される事物のうちにこれと似たものを見ることによって
想起されてくるのだともされた(想起説)。
こうして、イデアは、魂がその本然のあり方(=真)を回復しようとしておこす
愛知(=哲学)の運動の始まりと終わりにおいて限定して、
愛知の運動を成り立たせるものである。
「美のイデア」「正のイデア」はこういうイデアの典型である。
しかしプラトンの著作のなかには、
ほかに「等」「大」「小」というような形式的または数学的な事柄、
また「敬虔(けいけん)」「節制」というような
倫理的な事柄、さらに「寝台」というような人工物についても、
イデアが語られている。
そこで、「プラトンのイデアを何であると考えるか」は、学者の論争の的となっている。
イデアは多くの場合、「そのもの」ということばを付して、
たとえば、「美そのもの」「等そのもの」というように用いられる。
そこで、普遍的な名辞があるとき、
その名辞の意味する普遍者がイデアであると考えられることがある。
これは、プラトンの弟子アリストテレスが、
イデアの説を批判するときにとった解釈であるが、
その後も踏襲され、イデアは普遍概念の実体化であるとか、
概念実在論であるとか、という非難が浴びせられてきたのである。
しかし、イデア論の真義は、ソクラテスの愛知のうちに
その淵源(えんげん)をもつと考えられる。
ソクラテスにおいて人間的な知恵の唯一のあり方は、
人間にとっての最大事を問うことの内にあるが、
この問いは、この最大事がまだ知られていないと知る
根源的な問いかけであるが、この最大事へとかかわる
愛知の探求をその端初において限定するものが個々のイデアであり、
このかかわりの全体性を到達点として根拠づけるものが「善のイデア」である。
こうして、イデアとは、愛知の道行きにおいて、
問いを問わせている根源として示現してくるものであり、問うものの存在を含めて、
この世界いっさいの存在を問い返してくる根源そのものの示現の姿なのである。

[加藤信朗]
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