スキップしてメイン コンテンツに移動

チンギス・ハン






1,チンギス・ハンとは


モンゴル帝国の創設者(在位1206~27)。

廟号は太祖。幼名はテムジンTemjin(鉄木真)。

かつてはジンギス・カンと表記されることが多かった。

生年については、1155年、62年(元史)、67年などの異説がある。

モンゴル民族の名門氏族の出身で、次の二つの始祖説話をもつ。








(1)天命を受けた蒼(あお)い狼(おおかみ)が白い牝鹿(めじか)を妻とし、

東からきて大湖を渡り、オノン川の源のブルカン岳に住み着いたのがその祖先である。

(2)祖先の妻が夫の死後、

毎晩テントの煙出しから入ってくる光の精に感じて産んだ子供がテムジンである。

(2)がモンゴル民族に固有の説話だったが、

彼らが東方からオノン、ケルレン両川の上流に移ってきた際、

そこにいたトルコ系民族から(1)を採用し、

(2)の前に付け加えたのだといわれる。

[護 雅夫]









2,モンゴルの統一



幼少のとき、父イエスガイがタタール部族に毒殺され部衆が離反したため、

貧苦のうちに成長し、当時強勢を誇っていた

ケレイト部族のワン・ハンに従ってしだいに勢力を蓄え、

1189年ごろ、モンゴル氏族連合の盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。

チンギスとは古代トルコ語のテンギス(海)の訛(なま)りだとか、

1206年の即位のとき五色の瑞鳥(ずいちょう)

チンギス、チンギス」と鳴いたことに由来するとかいわれるが、

シャーマニズムの「光明の神」Hajir Chinggis Tengriの名前と考えるのが正しい。



 ジャダラン部族のジャムカを破り(1201)、タタール、ケレイトを討滅して

東部モンゴルを平らげ(1203)、軍制を改革したのち、

西方のアルタイ方面に拠(よ)ナイマン部族を滅ぼして(1204)、モンゴル草原を統一


1206年オノン河原にクリルタイ(国会)を開いてモンゴル帝国のハンの位につき、

氏族的共同体を解体して、


軍事組織に基づく千戸とよばれる遊牧民集団を95個編成した。







千戸およびその下の百戸は同時に行政単位でもあり、

千戸長、百戸長には功臣を任命して、

これらを左翼、中軍、右翼の万戸長の指揮下に置いた。

またケシクテイkeshigteiと称するハンの親衛隊を設け、

千戸長、百戸長などの子弟をこれに編入して特権を与え、

モンゴル遊牧軍団の最精鋭部隊を構成した。


[護 雅夫]













3,大帝国への道



即位の翌年、西夏(せいか)を服属させ、

金に侵入してその首都中都(北京(ペキン))に入城した(1215)。

一方、先に滅ぼされたナイマンの王子クチュルクが

カラ・キタイ(西遼に亡命してその国を奪っていたので、

部将ジェベを遣わしてこれを討って併合した(1218)。


また、西アジアのイスラム世界の

覇者ホラズム・シャー朝と交易しようとして

派遣した使節団が虐殺されたため、これを機に西征に出発した(1219)。

彼はオトラル、ブハラその他の都市を攻略したが、

ジェベ、スブタイの率いる別軍はホラズム・シャー朝の

国王ムハンマドを追ってカスピ海中の小島に窮死させ(1220)、

さらにカフカス山脈を越えて南ロシアに出、

ロシア諸公の連合軍をハルハ河畔に破り(1223)、クリミアを征略して本軍に合流した。

本軍はこれに先だって、バルフを占領し、

ムハンマドの王子ジェラール・ウッディーンと

インダス河畔で戦ってこれを撃破した(1221)。

しかし、酷熱に耐えられず軍を帰すことに決め、

イラン各地で転戦してきた王子チャガタイ、オゴタイの軍をあわせて帰国した(1225)。

[護 雅夫]





4,モンゴル軍の残虐


モンゴル西征軍の蛮行について、多くの事実のなかから一例をあげよう。

それはチンギス・ハンがブハラのイスラム寺院(モスク)に踏み込んだときのことである。

イスラム史家は

それは恐るべき日であった。耳にするのは、

ただ老若男女が永別を悲しんで泣き叫ぶ声だけである。

野蛮人どもはこの不幸な人たちの面前で婦人たちを犯したが、

彼女たちはこの屈辱を退ける力とてなく、ただ悲鳴をあげて悲しむばかりである。

この恐るべき光景を見て、自ら進んで死ぬ者が少なくなかった


と伝えている。



 このようにモンゴル軍は殺戮(さつりく)を重ね進軍したが、

イスラム教徒の工芸家や職人の技術を高く評価し、捕虜として連れ帰った。






こうして征服された地域は諸子に分封されて、

後の諸ハン国のもととなったが、

モンゴル本土は末子のトゥルイに与えられることになった。

ついで、1226年秋、西征の参加を拒否した西夏を処罰するため出征し、

西夏の首都寧夏(ねいか)を包囲したが、

翌年甘粛(かんしゅく)省清水県西江のほとりで病死した。


[護 雅夫]







5,チンギス・ハンの人柄



その政治理念は、彼の残したヤサ(法令)とビリク(箴言(しんげん))とに示され、

その厳格な遵守が要求されたが、

これらにはモンゴルの伝統的な慣習法がにじみ出ている。

彼はシャーマニズム信者であったが、ほかの宗教には寛大で、

外来文化の摂取に努めた。とくにウイグル文化を愛し、

ナイマン征討の際捕虜としたウイグル人タタトンガについて、

一族の子弟にウイグル文字を学ばせ、これを国字として採用した。



このウイグル文字からモンゴル文字満州文字がつくられた。

また遼(りょう)の遺臣耶律楚材(やりつそざい)、ウイグル人鎮海(ちんかい)らを重用し、

その教養と政治的能力を利用して、モンゴル帝国、とくに属領の統治に努めた。



 この1世の英雄も、晩年には不老長寿を願い、

道士長春真人(ちょうしゅんしんじん)(丘処機(きゅうしょき))を、


山東からサマルカンドの行宮(あんぐう)まで呼び寄せ、長生の薬を求めた。

長春真人は、「欲を節してわが身を保ち、生を好んで殺をにくむ」ことを説き、


衛生の道あるも長生の薬なし」と答えたが、

チンギス・ハンはこれに不満を示さず、かえって、その道話に耳を傾け、

彼に神仙大宗師の爵号を与え、道教の最高管理者の職を授けた。






[護 雅夫]






『那珂通世訳『成吉思汗実録』(1943・筑摩書房) 

▽ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史』(平凡社・東洋文庫) 

▽小林高四郎著『ジンギスカン』(岩波新書) 

▽村上正二訳『モンゴル秘史――チンギス・カン物語』全3冊(平凡社・東洋文庫) 


▽ルイ・アンビス著、吉田順一・安斉和雄訳『ジンギスカン』(白水社・文庫クセジュ)』



コメント

このブログの人気の投稿

重いものと軽いものを地面に落としたら?

重いものと軽いものを地面に落としたら どっちが早く落ちるの? 結論からいうと、どちらも変わりません 。 (*しかし、空気がある世界では、より軽く、よりやわらかく、 表面積が大きいものが 遅く落下します。 紙切れがゆっくり落ちていくのがそれです。) 物理学の世界では、 物体を自然と落とすことを 自由落下 といいます。 では、なぜ重いものと軽いものが 同時に落ちるのか、思考実験といわれる 頭の中で実験をして確かめましょう。 空気抵抗が無いもの、つまり 真空中 と 仮定して話をすすめます。 【真空中…空気が全くない状態。】 1gのものと、1gのものを同時に落としたら、 同じ速度で落下することは納得できますよね。 では、1gのものと2gのものは? と考えてみましょう。 2gのものは1gのものを1+1=2個くっつけただけであり, それ以上のものではありません。 くっついたというだけのことで落下速度が速くなるのであれば、 分割すれば遅くなる ということが推論できますよね。 じゃぁドンドンと分割していくと、 そのうち落下しないで 空中に止まったままになるの? とまぁ、こんな感じの思考実験をすることで ある程度納得できるのではないかと思いますが、 いかがでしょうか? では、実際に理論的に説明していきます。 重い物に働く重力の方が軽い物に働く重力より大きい。 重力 (mg) =質量 (m) ×比例係数 (g) … ① これは良くご存じの様です。 比例定数は重力加速度=gと呼ばれ、 厳密には  g= 9.80665[m/s² ]  と定義されています。 同じ力を加えても 重い物の方 が 軽い物より 動かしにくい 。 加速度 ( a :   m /s 2 ) =加える力 ( F: N) /質量 ( m: kg)    … ②  ②…これを運動方程式という 【*物理学で力は記号でFを表す。単位はN。】 これも経験があるのではないでしょうか。 次のような経験を思い出しませんか。 ・同じ重さなら加える力が大きいほど良く加速する。 ・同じ力なら軽い物ほど良く加速する

儀礼的無関心

1,電車での出来事 電車のなかでは, ふつうであれば夫婦や親子など 親密な関係にある人間しか 入ることを許されない密接距離や、 友人同士で用いられる個体距離のなかに 見知らぬ他人が入りこんでくるということから、 別の規則が派生してくる。 私たちはたまたま電車で隣り合って座った人と 挨拶を交わたりしないし, ふつうは話しかけることもない。   私たちはあたかも 自分の 密接距離 や 個体距離 のなかに 人がいることに   気がつかないかのように、 それぞれ新聞や雑誌を読んだり、 ヘッドホンをつけ 音楽を聴いたり、携帯電話をチェックしたり、 ゲームをしたり,あるいは 目をつむって考えごとをしたりしている。 それはあたかも, 物理的に失われた距離を心理的距離によって 埋め合わせているかのようである。 アメリカの社会学者 E. ゴフマン( 1922 ~ 82 )は, 公共空間のなかで人びとが示す このような態度を儀礼的無関心と呼んだ。 2、具体的に儀礼的無関心とは どのような状態で 行われるのか? 「そこで行なわれることは, 相手をちらっと見ることは見るが, その時の表情は相手の存在を認識したことを 表わす程度にとどめるのが普通である。 そして、次の瞬間すぐに視線をそらし, 相手に対して特別の好奇心や 特別の意図がないことを示す。」 電車のなかで他の乗客にあからさまな 好奇心を向けることが 不適切とされるのはそのためである。 たとえば, 電車のなかで他の乗客をじろじろ眺めたり, 隣の人が読んでいる本を のぞきこんだりすることは不適切と感じられる。 例外は子どもである。 子どもは他の乗客を指差して 「あのおじさん変なマスクをしてる」 と言っても大目にみられるし, 逆に子どもに対してはじっと見つめることも, 話しかけることも

地中海式農業

1,地中海式農業 地中海性気候 、すなわち冬季は温暖・湿潤、 夏季は高温・乾燥の気候地域にみられる農業様式。 商品作物としての耐乾性樹木作物と自給作物としての 小麦栽培 に、 ヒツジ、ヤギの飼養を取り入れた 有畜農業 である。 とくに耐乾性作物であるオリーブ、イチジク、ブドウ、柑橘 類、 コルクガシなどの栽培は有名で、なかでもオリーブは標式的な樹木といわれている。 伝統的な 地中海式農業 は、 小麦 ・ オリーブ ・ ブドウ の三大作物の栽培とヒツジの移牧を特徴とする。 しかし、 灌漑 農業 の普及や農業改善事業の進展などで、 オレンジ、レモン、野菜・花卉 類などのより商品性の高い作物の栽培が 盛んになる一方、 移牧 は衰退しつつある。 地中海式農業が典型的に発達する地中海沿岸地方では、 山地斜面まで石材などを利用した 階段状耕地 が造成され、 独特な景観をなしている(イタリアのアマルフィやチンクエ・テッレなど)。 イタリア半島 南部やイベリア半島では大土地所有制度が残存し、 多くの零細農からなる農村では、 伝統的な農法による生産性の低い農業が営まれている。 地中海式農業地域としては、 このほか近代的な灌漑施設を整えたアメリカのカリフォルニア地方をはじめ、 チリ中部、アフリカ南西部、オーストラリア南部などがある。 [新井鎮久・井村博宣] リンク リンク